「空中楼閣」

見えているのは蜃気楼。そこにたどり着くのかは私も知らない。

見えているのは蜃気楼。そこにたどり着くのかは私も知らない 虐待は魂の殺人




「人生の折り返し」などという言葉を目にすると、その人は自分が何歳まで生きるのかを知っているのか?と突っ込みたくなる。明日何が起こるか分からないのが生きているという事であるし、今を大切にしないという事は生きているのに死んでいるのと同じことでもある。自分で危機管理が出来ていないという事を暴露してしまっていることにさえ気が付かないという事は残念である。

もし、誰かが「人生の折り返し地点に居て・・・」と話し始めたら、私はその人を信じない。生き物の生死を決めるのは自分ではないのに、神の視点に立っているバカは相手にしたくないからだ。

私は自分の過去を鑑みて「人は信じるに値しない生物である」と考えている。相手に対しては臨機応変に相対するけれど、基本的にヒトを信じなくても生きていけるという事を実体験として知っているからだ。

私は長い間、人が怖いと思ってきた。その根拠は自分の過去にあるのだが、結局は人からどう見られるか、どういう罵詈雑言を浴びせられるかを怖がっていたのであって、その人自体を怖いと思っているのではなく自分の思考がそうさせていたのだと思った。全ては自分の思い込みであった。

誰かに何かを言われても、どう見られても、自分だけは自分を信じて、自分は自分が幸せだと思う事は別に悪いことではないと思うようになってからは、他人などどうでもよい存在になった。私は目の前の相手ではないし、目の前の相手は私ではない。所詮他人である。私は相手ではないから全てを理解することは不可能である。相手に「こうしてほしい」と思ったら、チェスの駒を動かす時のようにフェイントを使ってゲームでもしてればいい感覚だ。相手が死のうが相手の人生だし。ゲームのルールは、自分がやられてきた事で嫌だったことをしない事ぐらいで、それすらも、相手にとっては嫌な事かもしれないが、そこまで面倒見切れん。

色々な場所で色々な人に会うが、私はその人に対して親近感を持つということは無く、単なる興味がある個体としか感じない。今、この国において現在存在している人たちが人を人とも思わない人が多いのに、私が相手を人と思う必要が無いと感じている。

ヒトに対して親近感を覚えたり、共感したり、同意したり、親しくする必要は全くないと思っている。

自然界の中で暮らしていると、生物のみに囲まれている生活になる。自然界の生物の方がよっぽど信頼できる生き物なのだと思っている。私がこういう場所に流れ着いたのは、ヒトの汚い面を吐き気を伴った嫌悪感にさらされて生きてきたからに相違ない。

自然界の生き物に囲まれて生活していると「友達だから・・・」という妙な文言を聞かなくても済むし、下心や疑うという事をしないので、気が楽なのである。

植物の花同士が「友達だよね~」と言って無理やり癒着して相手を蹴落とす事しか考えないという愚図な事はしない。咲きたければ咲く、成長できる環境であれば各々の力の限り生きる事を諦めない。ヒトのようにヒトに依存して優越感を感じて相手を仕損じるという事等は無縁の世界である。

ヒトは助け合うものだという言葉や、人は弱いという言葉はヒトの単なる言い訳に過ぎない。
でも確かにヒトは弱い。まず、自分が好きな物事を決められないという弱さがある。それを貫くだけのタフさもほとんどない。人に寄生してその状態を「友人」や「親友」と言う言葉に置き換えているだけである。「親」に至っては「子供」に依存して溢れるエネルギーを吸い尽くして魂を殺すまでになっている。おぞましい事だ。

70億人にまで繁殖したヒトは、結局、アブラムシのように何かに寄生して繁殖してきただけなのだと思っている。その被害に遭ったのは私でもある。この狭い地球に70億人を超すヒトが跋扈しているのはほとんど異常事態だと考えている。私はむしろ心を病んで苦しんでいる人の方が生き物として正常なのではないかと思っている。
感受性が高く、感性が鋭く、危機感を察知する能力が高く、他人の雰囲気を読み取ることのできる生き物としては当たり前の能力を備えていると思っているからだ。

ヒトの脳は肥大しているが、それを全く使わずに生きている。そのようなヒトに対して信じる必要があるのかと考えたら、必要はないと思った。

ヒトによって、心が傷ついた人はその傷と共に懸命に生きている。まるで雑草のように何度踏まれても立ち上がる屈強な精神を持ち合わせている人であると思う。そういう人は何も言わないが、生き様が潔い。そして、現実を見る強さを持っており、その苦しみを受け止める器のある人である。

ヒトというのはバカな生き物で、経験したことしか実感として感じることのできない想像力が欠けた欠陥が顕著に顕れる生物である。適当な想像力で人を助けようとするという高いところから人を見下したヒトは押しなべて単なる偽善者である。

私は自分もバカであるという事は重々承知なのだが、バカはバカなりに色んな物事を積極的に経験しているし、体感したものを大切にしている。それらの事象が人より優れているという感覚は全くない。自分が得た満足感を人に押し付ける事自体醜くて自分が嫌になる。

人が怖い、ヒトは信じるに値しない生物であるという事は、他人から見たら「不幸」に見えるかもしれないが、そういう人は高みから私を見下して悦に入っていればいい。それでご満足な脳が足りないニンゲンの浅はかさに気が付かないだけ、ある意味「しあわせな脳の持ち主」ということであるからだ。欲深きヒトは人に非ずと思っている。





見えているのは蜃気楼。そこにたどり着くのかは私も知らない 虐待は魂の殺人


虐待されて、社会に抹殺されて、結局最後に残るのは自由だと思う。

自分の命を消す自由。

あの時から 何も変わってない。

最後の自由を考えると気が楽になる。



ずっと、誰かの捨て駒になって生きてきて、最後だけは「我」(エゴ)を通しても良いんじゃないかと思っている。






見えているのは蜃気楼。そこにたどり着くのかは私も知らない 虐待は魂の殺人


精神的・性的・身体的暴力を受けながらも何とか生き延びた人の事を「サバイバー」(生き延びた人)と言う。

たぶん、2017年現在、まだ、被虐待者は「弱者」という枠組みに入れられているのであろうが、実は、弱かったら生き延びる事が出来ないほどの壮絶な環境を生き延び、自分の道を人に頼らず泣きもせず、血反吐を吐き、身体と魂から血を流しつつ、咆哮を挙げながら生き延びてきたからこそ、私は自らに対して ”SURVIVOR” という言葉を使う。

”Im a survivor of emotional, sexual, physical abused.”

「私は、精神的・感情的、性的、身体的虐待を受けて生き延びた者である」

生き抜くという事は、単に「生きている」という状態を指すのではないと考えている。生き抜いて来た過去を受け入れ、その過去の傷を全て抱えながら、受けた傷が時に苦痛を自分にもたらしながらも生き抜いている状態であると考えている。

そういう観点からすると、生き抜いてきた被虐待サバイバーは弱者でも何でもないという結論に至った。自分を肯定するとかしないとかという小さな枠組みの中で生きるのではなく、全てを包括してい生き抜いているという状態を自分で受け入れているというだけである。

実際、強くなければ生き延びられなかった。本当に弱ければたぶん死んでいただろうと思う。

しかし、私は自ら死を選べるほど強くはない。死ぬこと、すなわち楽になりたいという心境から自分の命を絶つことも出来る筈なのだが、自分の根幹には「必ず生き延びてやる」というものがあり、自ら死のうとする勇気は無い。

二十代の初め「楽になりたい」とだけ思い、大量の薬を口に運んでいた所でなぜか発見され、他人から「君は自殺を決行していたんだぞ」と言われるまで、自分で自分を殺そうとしていたことになど気が付かなかった。私は死にたかったのではなく、単に楽になりたかったというだけの事であった。計画的に自殺を企てるほどの度胸は私には無い。

虐待されていた幼少の頃から最近まで、どうやら私は強がっていただけのようである。強がらなければ生き延びられなかった。人の話は聞かない(最終的に他人事と切り捨てられることに耐えられない)、自分が決断して全て決めて行動し続ける、痛みを感じている余裕などない、苦しいと思ったら負け、勝てる試合しかしない、使える法律は全て使った(六法なんて頭に入れようと思えば簡単にできる。要はそれが武器として必要かどうかであって、六法自体を利用して金儲けをする余裕などなかっただけ)、不要な人間は切り捨てるし忘れる、人前で倒れたり助けを呼ぶという事が頭になかった、頼れるのは自分だけだと考えていた、孤独だという事に気が付かなかった、攻撃するのなら相手が精神的に立ち上がれないまでにする(犯罪スレスレだが、違法ではない方法で)、実母のずるがしこい方法で人を操る事もした、とにかく食べる・睡眠だけは確保した・・・数えきれないほどの方法で生き延びてきた。

その中で「母親のずる賢い方法で人を操った」という部分が自分でも怖かった。今ではそういう事を全くしなくても良いので楽である。しかし、実母から直接精神的暴力を振るわれていると、それが武器になってしまう事も同時に覚えてしまっていたので、これだけは「使わない方法」として封印してあるが、精神的に相手を追い詰めるスキルとして自分が体得してしまったものとしては忌まわしいものであると実感しているので、人を傷つけないでいられるかどうかまだ分からないのである。自分が怖いと思うのはこの部分である。

だから、人と接するのが非常に怖い。自分が心優しい人を傷つける事は実母がやった事と同じことになってしまうからだ。

そして、私は優しくはない。優しさが命取りになるからであった。しかし、今はそのような事を考えなくても良い状況であるので、自分が優しいかどうかなどどうでも良いこととして生活している。

そして、今、何よりも被虐待サバイバーの側に立って物を見るという事をしている。忘れてはいけない被虐待の記憶は、いつか役に立つと考えているからだ。

私の実体験は、カネもうけのために使うものでは無いと思っている。

被虐待サバイバーとして人の話を聞いたりする事を利用して金を儲けた時点で、実母の金の汚さとその行動と同じことと考えてしまうからだ。

ただし、話を聞くのなら直に相手と会って話を聞く。
ネットの時代にそぐわないのかも知れないが、私は同じフォント(書体)で書き連ねられた文章から全てを読み取るような超能力は持っていない。会って、その人の雰囲気や言葉の選び方、声の抑揚、感情を表現する身体の動きや表情が分からなければ、聞いたことにならないと思っているからだ。

自分がそうして欲しかったという事ならば、出来る。

実際、現実に相手が話していて過去に何かあるかどうかは会えばわかる。辛い心の傷を雰囲気や表情で伝えてくれるのは文章や言葉に勝る。

しかし、今は時期尚早だと思っている。それが出来るようになるにはまず自分が安心感というものを心から感じるという事を継続することが先決だと思っている。教科書など役に立たない事も知っている。

がむしゃらに生き抜いてきた自分の為に泣き、感情を少しずつ取り戻してみると、被虐待サバイバーとして生きてきても、自分の核になる本来の自分というものが少しずつ見えてくる。それは驚きであるし、新しい発見でもある。単に楽しい。
自分が思っていた自分とは違うと分かった時は愉快で笑ってしまった。

そういえば、精神科処方薬を断薬してから丸四年が経った。精神科処方薬は元々要らなかったという事が証明されてしまって、これも驚きである。ドラッグ(精神科処方薬)を服用していた時の方が精神的に不安定で負の感情(ネガティブな感情)が強く、痴呆のようになっていた。今は頭がスッキリしている。

酒も煙草もドラッグも要らなくなってしまった。人に対して異常に執着する事も無いし、SEX依存症みたいなものもきれいサッパリ消えてしまった。(SMだ、主従だという人に依存するという事が無意味になった)


このところ考えることは、被虐待サバイバーは決して弱者ではないという事である。


ただし、精神的・性的・身体的暴力を振るうニンゲンに対しては牙を剝く。私は平和主義者ではない。暴力をふるう人間に対しては容赦はしない。暴力では暴力を阻止できないし圧力を掛ければ暴力が無くなるというわけではないので、それなりのスキルで対応している。実践を積むとほとんどの事は解決する。幼いころから実の両親の怒号が飛び交う中でそれを鎮めるための体験的な実践を積んできたので、身に着けたスキルは最大限に利用しようと思っている。

私は過去を持っていることは認識しているが、実感として感じられるのは今だけである。一秒先が分からない未来のことがサッパリ予想できないのである。常にその場その場で出来得る限り対応してきたからなのか、未来を予想する事が出来ない。私は「今この時」にしか生きられない。それに、これほど長く生きるとは思いもよらなかったから戸惑ってもいる。

これから・・・は、私にも不明である。











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if you feel so alone and hurts your soul in the darkness




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if pain comes thousands of times like waves of the ocean




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tell to someone who dont judge and just only listen your story





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you are not alone...


~selenet







私は日本のサブカルチャーやアンダーグラウンドの変遷に非常に興味がある。

オタクという人達は多岐に渡って既に市民権を得た。彼らは天才である。

元々日本の民族せいなのか「一つの事を極める」という人が非常に多いと思っている。たとえばガンマニア。読書・映画・多岐にわたる創作・~道と言われる心身の鍛錬(華道・茶道・武道・書道・・・)・アロマ・スピリチュアリティ・SF・哲学・絵を描く事・コーヒー・紅茶・植物を育てる事・写真など、数えきれない。とにかく、何かに精通している人は多い。下手に「アロマって何ですか?」などと聞くと延々話し続けてくれるので、ありがたいやら困っちゃうやらというほど熱がこもっている人によく出会う。私にもいくつか「好きでたまらなくてやめられません」というものがあって、それを人に話すと「ああ・・・またやっちまった」というぐらい話し込んでしまう。

仕事が合理的に完全分業制みたいになっているようだけれど、日本の人達は元々「自分が興味を持ったものを楽しみながら、何かを極めるのが好き」という人達が非常に多いので、海外のそれとは性質が違う。そして、誰かが何かを極めている物を否定しないという風に時代が変化してきている。一昔なんてオタクという言葉でその人たちの好きな事さえ弾こうとする忌まわしい時代があった。

好きな事を極めている人たちの中には研究畑にいる人も居て、軽く30~40年間その研究を楽しみながら進めている人にも多い。言葉を借りればオタク道を極めている人たちである。それが続けられるように、彼らに資金援助をするのは当然のように感じている。それが後々役に立つことは往々にしてあるからだ。過去のばかな役人が行った事業仕分けなど言語道断だと思ったこともある。

私がちょっと足を突っ込んでいる「面白い事」の一つに未だ市民権を得られていないSM・BDSM・主従関係・D/sという大きなくくりのセクシャルマイノリティが沢山存在している。写真家のアラーキーがその道の写真を撮り始めたのが1970年前後からだと記憶している。団鬼六もその時代の人だった。というか、S&Mという言葉を輸入したのは団鬼六であっただろうと思う。その当時のSM雑誌を入手して、今の現状を見ると、その時代から何も変化していない。現在もそのままサブカルチャーでアンダーグラウンドという位置に居る。これからどういった推移を見せるのかを見るのは楽しい。ただし、AVのSMは酷い。言うまでもないが、あれは単なる仕事であろう。

サブカルやセクマイが市民権を得るまでには、実は数百年掛かる。新宿二丁目で楽しく頑張っている人たちも、実は「取り換えばやものがたり」が平安時代にあって、それは男性が女性の格好をし、女性が男性の格好をするという筋書きなのだが、そこがスタートであるとすれば、気が遠くなるほどの歳月をかけて女装・同性愛というものが市民権を得ている。それに、ゲイ(男男・女女)や女装は一般庶民の楽しみではなく、遊びの天才(貴族や公家などの特権階級)やお坊さんやお殿様の特権で一般庶民の物ではないというイメージが長い間あった。

もともと主従関係のような性嗜好的なものは、庶民の間では、古来の村の男性と女性の婚姻の形に非常に似ている。まるで温故知新である。SMは海外から輸入して先駆者ががんばった、D/sは発祥の地では既に市民権を得ているが、日本に輸入されたのは十数年前で足元がおぼつかない。BDSMは輸入はしたもののまだ枠組みの片鱗さえおぼろげのように感じる。そういったものを受け売りではなく、自分の物にして極めてから後、ゆっくりと市民権を得ていくものなのだと思う。足元を固めて極めて我が道を行く人が出てくると「出過ぎた杭は打たれない」(勝手にしろ)という状態になり、徐々に肩身の狭い雰囲気から解放されるのだと思うけれど、気が遠くなるほどの年月がかかるであろうと思う。

せっかくサブカルだしアングラなのだから、そこで楽しめばよいのでは?とも思うけれど、人は誰かに認めてもらいたいという欲求が恐ろしく強いので、どうしても「どうだ!」という感じで強く出てきてしまう。そうされると、ちょっと引く。(「私は変態だ!」と言う人は変態ではないと思っている。本当の変態は「自分は普通だ」と信じ込んで疑ったことが無い。性的マゾヒストの役割を演じている人は後天的な強迫観念の基礎があって、自分が性的・精神的に踏みにじられた過去の再演を行っているただの人である)


何もかも、新しく道を作っているという自覚のある人たちは自分のペースで着々と道を固めているようで、先頭を走る人は何事も険しいものなのだなあと思う。

ちなみに私はカルーセルマキさんがお気に入りである。美輪明宏さんは元々美少年だったし・・・。
とにかく彼らの「私はこうだ!それに楽しい!」を極めた人は突き抜けた爽快さがある。

未来のいつか、今現在のサブカル・アングラは、当たり前に受け入れられるようになると思う。そういう流れになっている。

サブカルやアングラは表に出てしまったり市民権を得てしまうと居心地が悪くなる感じもするので、各々が心地良い場所でドンヨリしたり不透明な感じの幸せを満喫して自己満足をしていれば、それは素晴らしい世界観のなかで生きているような気がする。

SEXが大っぴらにならない国には、その国の味ってものがあるから、それを大切にしたい気持ちもあって、そ~~~~っとしておきたいものでもある。

ただ、新しいものとして認識されるものは、ほとんどの場合サブカルか、アングラから出てきている。そういう事も、日本の文化なのだと思う。





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